どこまでを「アジア」枠に入れるのかは悩みどころではあるのですが(インドはアジア?)この作品についてはやはり引っかかる物が多いので、文章にまとめておくべきかなと思ったので取り上げます。
まぁ番外編と思っていただければ。
ちなみにネタバレ全開なので映画をご覧になってない方は、またのお越しをお待ちしてます。
日本映画「怪物」の感想を
諏訪市に住む麦野早織はクリーニング屋で働くシングルマザー(安藤サクラは万引き家族でもクリーニング屋の店員やってませんでしたっけ?)。
息子の湊に担任教師による暴力の兆候を感じ取り学校へ相談に行く。
ところが対応にあたる先生たちは「お前ら魂抜かれてんのか?」と疑いたくなるほど無機質な対応に終止して一向に問題は解決しない。
麦野母の先生たちへの対応はあっという間にヒートアップ。
生徒達からも実際に学校でなにが起こっていたのかを告発する声が出て、ついに担任教師は保護者の前で謝罪する事態になる。
釈然としないが、それでも麦野母が信じる「正義」は一応のところくだされた。
だがしかし。
彼女の目から見えた真実は、息子の湊、彼の友人の星川依里の2人を中心に起きた出来事のほんの断片。
彼女がわずかな断片で作り上げた真実と、実際に起きた出来事は大きく様相が異なっていた。
と、ここまでが麦野母の視点で書かれたエピソード1。
続くエピソード2は麦野母に「これでもか」と糾弾される性格の悪いクズ担任保利先生の視点で描かれます。
エピソード1では保利先生を筆頭に「こんなふざけた教師いるのかな」と頭をひねったロボットみたいな教師たち。そんな彼らのロボットじゃない姿が描かれます。麦野母が集めた断片からはクズにしか見えなかった保利先生が、どこにでもいるごく普通の良い先生だという事が明かされて、視点によって。集めた断片の質や量によって、真実というものは如何様にも形づくられるものなのだ。
という昨今の物語に採用されがちな問いかけがなされます。
ちなみに視点によってと書きましたが、麦野母目線の時点ですでに、るかっちは「この人こえーな」と感じました。
保利先生も、それ以外の先生も、個々人としては欠点を持つ善良な人間しかいないのに、組織人という塊になった途端「善」とか「悪」とかではなくて、ここまで心をからっぽにした対応ができる。
個々人の想いをきれいさっぽり消し去って「ロボット」に徹っしてしまう描写に
「日本人ってこういうとこあるよな」という寂しい感慨を感じました。
タイトルが指し示す「怪物」とはなんだろう?という問いかけは見た人の感想でよくあがってきていますが僕的にはこのシステムこそが「怪物」だなぁと感じます。
そんな寂しい感慨に重たい気分になった状態で幕を開けるのがエピソード3。
仲が良かった、いじめてた、いじめられていた。
複数の証言が飛び交っていた湊と依里の関係が、湊の目線で語られます(つまりはこれも「事実」と言い切ってはいけないのでしょう)。
告白すると、僕はこの2人の関係が同性愛的な物であるんだろう、という事をあらかじめ知った状態で作品を鑑賞しています(カンヌでなんの賞を取ったのか聞いていれば、おおよそ予想はつきました)。
初めて同性に恋心を抱いてしまって動揺するも相手への愛情に抗えない。
このエピソード3だけを抜き出したら、既視感のあるクィア・ファーストラブストーリーだと思うのですが、残り2つの(しかも気分の重たくなる)エピソードの謎解き編として描かれるので、伏線がビシバシ決まってく気持ちの良さと、2人の少年の友情とも恋情とも取れるやりとりのキラキラ感。
湧いてくる感情が整理できないまんま行動として現れるその生っぽさから来る高揚感の相乗効果に惹きつけられます。
廃棄された列車を改造した秘密基地とか、男の子心を刺激する小道具も思春期手前のほんの一瞬しか効果を発揮しない魔法の時間を感じさせて情感がある。
と、僕は後半はそんなキラキラ感に浸っていたのでラストも見たまんま、嵐をやりすごし、すべてがメチャクチャになったけど、輝く世界に這い出した2人。
なのだと解釈しました(正確にいうと後味が良いので僕は今後もこの解釈を採用します^^)。
ぶっちゃけ現実の問題はなにも解決していないけど、それはキラキラ感にリアリティをもたせるための重しなんだろう、位に思っていました。
視聴後しばらくしてあのラストが別の解釈、すなわち「お空の星になりました」という説があると知ったのですが(まぁそうも取れますね)僕はいまいちピンと来ないというのが正直なところです。
その解釈だと物語としては「世間が2人のような関係を充分認知していないから、彼らは星になりました」という事になるんだと思うんですが……。
すでに「愛は愛だ」すら言わなくなって久しいタイBL沼に浸かる身としては、その価値観は周回遅れすぎじゃないかと思えて、あまり説得力を感じない。
言うまでもなく評価の高い監督なので、それはないと思うのですが、そう考えると依里くんが女の子っぽい服を来てたりする部分も理解が少し古いのだろうか?と思えなくもない。
このラストがどっちなのかで作品への評価は僕の中では大きく変動するわけですが、明示されてるわけでもなさそうなので、僕は彼らのラストの言葉どおりだという事にしておこうと思います。
既に書いたように前半に貼った伏線がビシバシ回収されていったり、前半で描かれたストーリーがものの見事に反転していく様はスリリングだし、全貌が明らかになってからの求心力はものすごい。
これも言うまでもないのですが非常によく出来たサスペンスでした。
2023年6月22日追記
「明示しないので結末は自由解釈で」だと思うのですが、結局は制作側の意図が気になってしまって以下のシナリオ本を読みました。
映画より踏み込んだ描写が書かれていたので、それを踏まえた作品の評価も追記しておこうと思います。とはいえ映画としては解釈に幅をもたせており、シナリオに書かれていることが「正解」という事でもないと思います。
もし結末に納得されている方は変に色々掘り下げなくても良いんじゃないかなと思います。
というわけで……。
良いですね?
このシナリオ版に書かれていて、映画からは省かれたのは大きく2つ。
1つは湊と依里のクラスメイトで、先生にウソをつく少女の描写で、ほぼ全削除と言っていいレベルで消し去られました^^;
そのせいで彼女は一体なにがしたいのか映画だけではよく判らなくなったのですが、それでも彼女のパートを削除したのは個人的には理に適った選択だと思います。
詳しくはシナリオ本をご覧になってほしいのですが、シナリオの描写がそのまま入っていたら「クィア映画」としてはリアリティを大きく損なっただろうと思います。
2つめは映画で書かれたラストシーンの結末部分。
これもシナリオ本からの引用はしませんが、あのラストシーンがイメージの世界ではない事はかなり直接的な言葉で書かれています。
ですのでシナリオの意図としては「お空の星になった」説は取っていないと解釈して差し支えないのではと感じます。
その上で、実際に映画で使われたラストシーンを再度思い返してみると……。
登場人物を襲った大きな嵐。
息子を病気だと蔑んだ父はヨロヨロと嵐に翻弄され(ざまぁ)
校長は(たしか)辞表を出すという形で嵐に倒され
コントロールフリークの気がある湊の母と、なにも分かってない先生は、子供達の後を追いかけるだけ……。
そんな中、湊と依里の2人は、嵐によって倒された自分たちの秘密基地(安全な場所の暗喩?)から抜け出して、廃坑の中を泥まみれになり自力で台風一過の輝く世界へ這い上がる。
あの2人だけが嵐に負けず、嵐にすくまず、以前よりもキラキラした世界に足を踏み入れる。その世界に、嵐を抜けられなかった大人達を視聴者の疑問に答えるためだけに登場させる必要はない。
嵐の後の高揚感で「今この瞬間なら、どこまでも行ける」と疾走していく2人で締めくくったラストシーンは美しく、そして希望のある幕切れだと思いました。