済州島に暮らす中年男・テッキ。
若い頃から詩人を志してきただけあって受賞歴などもある彼だったが「売れている」とは言い難いし、年齢相応の深みが詩に反映されていないことを仲間の詩人に指摘される。
小学校の臨時教員の仕事も始めたが、妻の稼ぎに頼っているのが実情だ。
その妻もすでに若いとは言えない年齢で「子供欲しさ」から夫を強引に奮い立たせようとする。
医者から乏精子症と診断されたテッキは、そんな妻の懇願に負け人工授精に協力することになる。
順調ではでないが、どん詰まりというほど悪くもない。
すっきりとしない日々に釈然としないものを抱えつつ、変わらず詩作に勤しむテッキだが、同人からの苦言が頭にひっかかり、思ったような作品が作れない。
ドーナッツ屋で詩作に奮闘していたテッキは、店員の若者・セユンが口にした言葉をきっかけに、これまでとは全く違う詩を創りあげることに成功する。
それ以降、テッキはドーナッツ屋に入り浸るようになる。
詩作をしながら、視線はセユンを追ってしまうテッキ。
店のトイレでセユンと友人らしき女がイチャコラしてる様を偶然見てしまった彼は、そのことが脳裏から離れずに、(人工授精のための)夜のおかずに使用する。
詩作仲間との忘年会を終えた帰り道。
酔っ払ってベンチで寝ているセユンを見つけ、テッキはおずおずと彼に声をかける。
というのが、物語の3分の1くらいまでのあらすじです。
同性に恋心を抱く中年男の話、ではありますが、ラブストーリーかというと個人的には疑問符がつきました。
テッキがセユンのためにするアレコレは、まさに恋する人の(しかも制御が効かなくなってる時の)それだと思うのですが、それを受けるセユンの方は「恋」とはちょっと違うような気がします。
彼が求めているのは「父親の代わり」というか。
自分を気にかけてくれて、わずかなりともすがりつける存在。
肩を借してくれて、思う存分泣くのを許してくれる大人を求めていたけど、イコール恋人に出来たかというと違うんじゃないかなと感じました。
キスはおろか抱きあいもしないプラトニックな関係のまま終わりを告げる2人ですが、仮に一線を踏み越えてイチャコラに持ち込んだとしても、行為としても関係としても、そこで終わってしまっただろうな。
と個人的には思います。
年齢も違えばビジュアルも違うこの2人。
共通してるのは、どちらも自立できてない、という所。
20歳前後という設定にみえるセユンはもちろん、35〜40歳という感じのテッキの方も妻の稼ぎで生きている。
1人立ちできてない2人の男が、かたや恋心から、かたや父の影を投影して、お互いにしがみついて煮詰まって「2人で人生やり直そう」とのめり込んじゃったのが、テッキとセユンの関係だったんじゃないかという気がします。
2人が失敗必至な逃避行を敢行しないで済んだのは、一見ガサツでサバサバしてみえるテッキの妻ガンスンの存在があったから。
いつまでも少年の青臭さが抜けない中年男とすがりつける物を求める孤独な青年という、設定も行動も判りやすい男性陣に比べると。
妻・ガンスンさんは、序盤、中盤、後半と、まるで違った表情を見せてくれて、主人公目線で映画を見てると、時にイラッとさせられます(妻としてはごく当然の反応ですけど)。
ただこの人も「世間が考える女としての幸せ」とか「世間様の視線」とかをすごく気にして生きているように感じられます。
「人並みの幸せに足りてない」その切迫感みたいな物が、あるシーンでは攻撃的に映り、あるシーンでは哀れみを感じさせる。
この人を主演の男2人以上に厚みのある人物として描いたあたり、この作品はBLという括りで語れない映画なんでしょうね。
派手さも、キュンキュンとする展開も皆無ですが、詩人の話だけあって言葉のチョイスやリズムはとても気持ちがいいです。
ちなみに主役テッキを演じているのはヤン・イクチュン。
「息もできない」という映画でチンピラ未満のチンピラをやっていて「しーばらーま」を連呼。ギラギラした印象が強かったので、今回のぽっこりお腹の中年おやじが彼だとは最初思えませんでした。役者ってすごい。
正直、テッキのこの冴えない感じ。
僕は嫌いではありません。
お時間のある時に、ぜひご覧になってみてください。
では待て次号!