「お願いがあるんだけどな」
背後から隊長の腰に手を回し、ささやいた。
かえってきたのは「ん?」という言葉だけ。物足りなくて……。
僕は隊長の肩にあごをのせ、少し甘えた声を作って(頑張ったんだ)言葉を続ける。
「学校までさ?隊長に送ってほしいなぁ」
「今日は無理だ」
「なんで今日にかぎって?いつも乗ってけってうるさいくらい言ってるじゃん」
予想だにしないそっけない言葉に驚いて、ちょっと語気が強くなった。
向き直った隊長は「すまん、Tian」と両手を僕の肩に置く。
「でかけないと」
「でかけるって。現場?事件?」
「ま、まぁそんなところだ」
レンジャーに決まった休みなんかない。
夜中だろうが早朝だろうが、無線で呼ばれて飛び出していくことなんて、これまで何度もあったけど……。
「まぁそんなところだ、って、どんな事件だよ?」
隊長は僕の肩をぽんっと叩くと、壁にかけたボロの鞄をつかんで執務机に向かった。
はぐらかされてる。
「ねぇ!隊長?」
隊長は細々としたモノを鞄の中に押し込みノーコメントを貫いている。
「隊長ってば!そんなところってなに?」
「……。トラが出た!」
「トラ?トラって」
僕は指を丸めると「がお〜」と小さく吠えてみた。
「そのトラだ。実物はお前のようにカワイくないが」
褒めて話をそらそうって作戦に、僕は乗らないよ。
「この村にトラなんて出るんだね?」
「滝から遠くない森の中を悠然と歩いていたらしい。見間違いかもしれないが、一応確認しておかないと」
ことがことだけに「途中まででいいから一緒に行こうよ」とは言えなくなった。
この村の事、僕はまだよく知らないんだな。
隊長が車の荷台に装備を放りこむのを、木戸にもたれて見守った。ほどなく隊長は「こんなもんか」と呟いて荷台のドアを閉めた。
「ねぇ」
「ん?」
「武器ってさ。それだけでいいの?」
と腰にさがったリボルバーを指さす。
「トラ退治の専門家じゃないけどさ。ライフルとか使うんじゃないの?普通」
僕の指摘に隊長は2度3度とまばたきをした後、バツの悪そうな顔で倉庫(というか物置というべきか)に走っていく。
「しっかりしてよ」
隊長の背中に声を投げつつ、僕はランドローバーに近づいた。
小走りで戻ってきた隊長は手にしたライフルを少しかかげる。
「あやうくTianを未亡人にするところだった」
「そもそもアンタの妻じゃないから」
「照れるなよ」
「はいはい」
あきれた風を装いながら、僕は運転席のドアを引いてやる。
隊長は助手席にライフルを置き、運転席に体を滑り込ませた。
「悪いな。Tian」
「そう思うなら、せめて早く帰ってきてよね」
今日は特別な日なんだからさ、と心の中で付け足した。
「気をつけて」
彼の額にキスをした。
隊長の車が緩やかな勾配を登っていく。
見えなくなるまで見送ってから、学校に行く準備を始めた。
四月。バンコクほどではないけれどこの村も暑い。
四月。とにかく暑い日が続く。
ひたすらに強い陽射しを避けるため、わずかな木陰にあぐらをかいて、村のはずれであの人を待ってる。
インターネットが繋がらないこの村では、スマートフォンで時間を潰す、なんてことはできないから、僕は拾った小枝で思いつくまま地面に絵を描いてた。
砂利を弾く音に気がつき顔をあげた。
レンジャー所有のランドローバーが砂煙をあげ近づいてくる。立ちあがってズボンの砂をはたき落としてる間に、車は僕の前に来て止まった。
「おはようございます」
手を合わせながら車に近づき、助手席のドアを開ける。
狩猟用のライフルが、僕の代わりに座っていた。
「あの。これは」
「おぉ!すまない」と慌てた様子でライフルを取ると、Phupha隊長は車を降りて荷台へ向かった。入れ替わるように助手席に乗り込む。
Phupha隊長は荷物の一番下にライフルを入れ、固定した後、運転席に戻ってきた。
車が動きだす。
この人のこと子供の頃から知っているのに、一緒にでかけるなんてこれが初めてかも。
「すまないな。呼びつけて」
「いえ。どのみち戻らなきゃいけなかったし、送ってもらえて助かります。あ、でも役に立てるかどうかはわかりませんよ?」
「お前はあいつと歳も近いし。俺が選ぶよりはマシだろ」
「だといいですけどねぇ」
「期待してるよ。Longtae」
と、Phupha隊長は微笑んだ。
「そういや。Phupha隊長?」
「ん?」
「チェンマイに出るのに、なんでライフルなんか持ってきたんですか?」
笑顔が苦笑いに変わる。
車は砂利道を抜け、2車線の舗装道路を走り始めた。
黒板を目一杯使って黄色のチョークで線を引く。
「今日は、この生き物について話をします」
絵が得意だ、とは嘘でも言えない僕だけど、ギザギザの耳に四本の足、その先に細い尻尾を描いていけば、おのずと……。
「猫ですね!Tian先生」とAyiが叫んだ。
「……。トラですよ!」
指をカギ爪のように曲げた手を高くあげ「がお〜」と吠える。笑いを含んだ叫び声が教室に響いた。
手早く縞模様を足したあと、僕は子供たちへと向き直る。「トラを見たことがある人は?」と聞くと「動物園で見ました!」「俺も見た」「僕も」と子供たちは口々に言う。
「じゃぁ野生のトラを見たことがある人は?森の中でのっしのっしと歩いてるトラを見た事がある人は?」と続けると、教室はしんっと静かになった。
「今、僕たちの住む南東アジアでは野生のトラと会うことはまずありません。なぜなら開発や密猟のせいでどんどん数が減っているからです。お隣のカンボジアではすでにトラはいなくなってしまいました。この国でも、もう限られた場所に、ほんの少ししかトラはいません」
って、子供たちに説明しながら……。思った。
なのに滝の近くにトラが出たって、やっぱりおかしくない?
「がお〜」
トラの頭がプリントされたTシャツを体にあてて、小さく吠えた。
「やめてくれ。Longtae」とPhupha隊長は苦笑する。
「ほーい」
トラシャツをたたんで棚に戻すと、僕達は色鮮やかなアロハシャツがかかるハンガーラックへと移動した。
市民に人気のショッピングモールの若者向けの洋服店を、Phupha隊長と回ること3軒目。これというのは見つからないようだ。
「しかし。いくら慌ててたって『トラが出た』はないですよ。僕、見たことないですもん」
「俺だってないさ」
「猪くらいにしておけばもう少し信じられるのに。絶対嘘だって気づいちゃってますよ、Tianさん」
「だろうな」
Phupha隊長はラックから抜いたシャツを確かめて「似合わんな」とつぶやき、元に戻した。
「やっぱり最初から素直に切り出せばよかったんじゃないですかね?プレゼントはなにがいい?って」
「それじゃ驚きがないだろう」
驚かせたいって、その気持ちは判らないでもない。
刺激の少ない村に住んでいると、自分たちの暮らしに少しでも波を作りたくなるものだから。
「これなんかどうだ?」
Phupha隊長は引っ張り出したシャツを僕に向ける。濃い水色のベースの上に真紅のハイビスカスが咲き誇る。
キレイではあるけど……。
「Tianさんらしくはないですね」
「だよな」
Phupha隊長はシャツを戻す。
「服を探すってのは難しいな」
「服じゃなきゃいけないんですか?Tianさんはいいとこのお坊ちゃまですよね?服なんていっぱい持ってるんじゃないですかね」
「かもしれないが、他になにがある?パソコンとかタブレットとか、そんなもの村じゃ使えないだろ」
「白地図欲しがってましたけどね。社会の授業に使いたいからって」
「仕事がらみは気の毒だ」
「ですよねぇ。となると、やっぱあれしかないですよ」
「あれ?」
「婚約指輪!」
「俺とTianは」
「うぃ〜。ただの友達、とか言わないでくださいよ?村の近くにトラが出るって話以上に信じられない」
目を白黒させて絶句するPhupha隊長に思わず笑ってしまいそうになる。
この人がこんなにカワイイ人なんだって、Tianさんが来るまで知らなかった。
「指輪以外で……。なにかないか」
「うーん。指輪は来年に持ち越しで、服もなし、ガジェットもなし、仕事がらみもなしとなると。路線を変更した方がいいんじゃないですかね?」
「路線?」
「プレゼントするのは、モノじゃなくてもいんじゃないですか?って話です」
結局なにも買わずに別れたし、僕の助言へのリアクションは薄かったから、帰省してTianさんに事の顛末を聞くまでは、これがかなりいいアシストだったって僕は知らなかったんだ。
子供たちを送り出して、1人教室を片づける。
ほうきで床を穿き、授業で使ったいろんな物を棚に戻した。
元通りになった教室の、自分の机に腰をおろして、30分くらいぼんやりとする時間に、癒やされてる。いつもだったら……。
癖でポケットに入れていたスマートフォンを引っぱりだしてタップする。
メールもLINEも当然来てない。というより、誰かからメッセージが送られても、この村にいる僕には届かない。
いつもならなんとも思わないんだけど……。
だらしなく机に突っ伏した。ひんやりとした木材の感触を頬に感じる。
「さみしいなぁ」
どうせ誰もいないからって声に出したら余計にさみしくなっちゃって、断ち切ろうと跳ねおきた。
控えめなクラクションの音を聞いたのはその時だ。
教室の前に停車しているランドローバーが感傷的な気分を(せっかく押し殺そうとしていたのにだ)また刺激して、不本意にも視界がぼんやり滲んでしまう。
困ったことに、いつもなら待っている隊長が車を降りて、近付いてきた。
「今行くよ!待ってて!」
僕は背中ごしに声を飛ばして、手のひらを目に押しつける。
トントンっと軽やかに段をあがる足音。続いて「Tian」と隊長の声がした。一呼吸して振り向いた。隊長はもう教室のドアの前に立っている。
「早かったじゃん」って笑顔を作った。
手を後ろで組み、隊長はゆっくりと僕に近付いてくる。
「で?どうだった?トラは見つかった?」
「ごめん。あれはつい口がすべって」
「知ってますよ。それで?」
隊長の右手が、僕の前に差し出された。
手に持っているのはきれいにラッピングされた、プレゼント?
教科書くらいの厚みをもった長方形。右端に鮮やかなリボンが添えられている。
「知ってたんだね」と僕は尋ねる。
「Namが……」
「先生は僕のカルテを見たことあるしね」
「Tian。誕生日、おめでとう」
そうだったらいいなって思ってたことが現実になると、笑っていいのか、泣いていいのか、わかんないや。
「Tian?」
「開けてもいいの?」
「もちろん」
僕は席に戻って、凝ったラッピングとの格闘を始めた。まずはリボンからだ。
隊長も生徒たちの椅子に座る。大きな体を窮屈そうに丸めているのが申し訳ないけど、笑えてしまう。
「お前の誕生日になにを送るか、悩んだよ」
「ありがと」
ほどいたリボンを脇に置いて、包装紙を剥がしにかかる。破けて汚くならないように、ゆっくりとテープを剥がしていく。
「色々と店を回ったんだが、これなら喜んでくれるって確信できるものが見つからなくて」
「気にしなくていいのに」
最後のテープが無事に剥がすと、包装紙をキレイにたたんでリボンの上に置いた。
今、僕の目の前に置かれているのは厚手の白い紙箱だった。
上箱の両端に手を添える。
「それでなTian。実はチェンマイに知人がいてな」
スッと上箱を持ち上げる。
「写真館をやってるんだ」
A4大のフォトフレームが現れた。
天然の木材が使われていて、安くない代物だってことはすぐに判った。
フォトフレームから顔をあげて、隊長を見た。
彼は少し視線を僕から外して、うつむき気味に、ボソボソと、話の先を続けた。
「Tian。せっかくだから。記念写真を撮るのも悪くない案だと思うんだが、どうだろう?」
「2人で?」
「俺とお前で」
悔しいけど、嬉しくて口元が緩んでしまう。
「もちろん、お前が嫌なら。なにか別のモノを探してくるが」
なにをいまさら。この人、分かってるくせに。
僕がイヤって言うわけないって……。
おしまい
お楽しみいただければ幸いです
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